すべり台(仮)

本日もおすべりしてます

これってなんだろう

調子が悪い時は調子が悪いことを受け入れよう。簡単ではないけど。寝てばかりで罪悪感が湧いてきたんだろう。せめても、と明日からの連休に備えて部屋の掃除をしてから筋トレ、体操をして最後にストレッチしていた最中に頭がぐわんとして胃からなにかせり上がってくる感覚がしたので大人しく途中で中断した。汗も大量にかいて服が湿って冷たくなり始めていた。気温はもう真夏のそれでは無い。うっかり体を冷やして熱なんて出してはいられないんだ。汗を拭き取って着替えてまた布団に逆戻り。もう仕方ないから本調子じゃないことを受け入れる。動きたいのに。その思いは一旦脇に退けておく。無理しなきゃいけない状況にある訳じゃない。むしろ無理して状態を悪化させることの方が問題なんだ。動ける時の為に備える。何をしたら自分に良くない事なのかを知る。


結局今、「元気になんてならなくていい」そう思っている。これは全く悪い意味で言ってるんじゃない。一言ではうまく説明出来ないのだけど、元気=ハイな状態が今までの私の基準だったんじゃないか、そして今も気づかないうちに元気=ハイのツケが回って堪えているのではないかと。普通に動けてれば十分なんじゃないか。自分の感覚だとただ動けてるくらいじゃ人として当然でそれ以上にやる気やアドレナリンみたいなのが湧き上がってないと元気では無い、みたいにどうしても思ってしまう。思い当たる節がかなりある。私にとって絶好調は危険なんだって、段々それが本当のことなんだって分かってきた。そうか…それを受け入れなきゃいけないのか…どうして自分の為に考えて分かったことに対して悲しいとか惨めだとか思うんだろう。これはお酒や煙草を辞めようとした時の当初思っていたことと似ている。好きだからでしょ。そっちの方が気楽で刺激的で非日常で堪らなく好きだから。私の考えそうなことはうんざりするほど分かってる。馬鹿馬鹿しくて泣ける。7月のある時から何度か酒を飲んでる。初めは忘れていた様なふとした飲酒欲に抵抗しなかった。別に死ぬわけじゃない。そう思ったのはテレビから悲しいニュースが流れてきて気が抜けていたからだと思う。一緒にいた姉も何も否定しなくて(もう酔っていたから)その日は酒を飲んだ。こんなに美味しくなかったのかと思った。その後度々飲酒欲は現れた。抵抗して苦しくてかえって胃が痛くなり泣きながら喚いて惨めになって飲まないですんだ事もあったら、すんなり抵抗するのを辞めて飲む時もあった。今のところどうしても飲みたいという気持ちは無い。けどどうやっても飲まないぞという決定的な判断を持つのは辞めていた。飲酒そのものを自分への裏切り行為であり罪だと決めつける考え方を捨てたかったからだ。そんな偏った決まり事を抱いて生きるのに疲れたのと、もっと柔軟な考え方を探したかった。私の決め事は強固で救いのひとつもなかった事に気がついた。これでは守れなかった時に爆発する。禁酒をしている最中はそんなつもりはなかった。不思議なことに飲みたいと一切思わなかったからで、それによって生活や気持ちが大分前向きになれた。ただ、もういいだろう頑張ったよ、飲酒を日常化するのはどうかと思うがどうしても飲みたい時くらい自分を許せよ。そう自分の中で声が聞こえた。本当に。まあそれで、その通り飲んだ日が数えて7日あるかないかだと思う。10日は無い。そのうち泥酔した日が覚えてるだけでも5日はある気がする。私は深酒をしてしまう質なんだということを改めて実感した。奇跡的にビール2杯で満足して眠りについた日があった。確かにそれは自分の中でも許容範囲内の飲酒だったと思う。何も嫌な気持ちにならなかった。翌朝寝坊することも無いし気分も悪いことも無い。これならお酒を飲んだうちに入らないんじゃないかと思うくらいだ。それでいて充足感はかなり感じられた。でもそれは本当にたまたまあった日のことであり、殆どの日が何を何杯飲んだか分からないし特に美味しいとも思っていないのに飲む行為は止められず、やっと眠くなって飲むことも億劫になってきた2時過ぎ頃にやっと水を飲んでついでに冷蔵庫にある食べ応えのある物を片っぱしから口に放り込む。と、こうやって私は酔った自分の体たらくを忌み嫌っている。それだけでなく、禁酒する前よりも二日酔いが酷い。1度の飲酒(多量な)がもたらすツケは1週間ほとんど動けなくなることだ。これがあるから自分の行動を呪うことになる。そりゃそうだ、本当に何もやる気が出ない。ベットでほぼ毎日過ごす。ホルモンバランスが崩れに崩れているせいなのか暑いのか寒いのかも分からない。肌がぶよぶよザワザワした感覚が収まらない。私にとって酒は覚せい剤に近い感覚をもたらすのではと思うほどだ。不安感と自己嫌悪。でもそのせいで酷く自分を責めることだけはしないように気をつけた。自分の為にできることは自分を必要以上に責めないこと。それが1番重要なことだということを今までの経験でよく学んでいる。この状況で自分を責めても良いことはほとんどないどころかより悪化し厳しい状態に陥れることになる。もう頭もあまり使わないでただただ楽な姿勢で毎日生きていよう、そうすれば自ずと動けるようになるそういうものだ、と信じて今もベットの上でこれを打っている。

動けない時に酒が飲みたいなんて思わない。だからこのまま動けなければいい、また訳の分からない馬鹿な考えが浮かぶ。動けたら、それによって元気になってしまったら、私はもう今の動けない自分が自分が動けるようになる為に考えた考えを忘れ去り、酒を飲むことへ前向きになって取り組みそして大量にこの体へアルコールを流し入れ、キマりきった目で「これでなきゃ生きてるっていえないね」と絶叫し気絶するように寝て起きた朝、昨晩した全行為を激しく後悔し後悔しないように気を使い鉛のような体を横たえてただじっとしていることしか出来ずまた自分の存在をどうにかこうにか慰める。

小悪魔

どうも何も無さすぎると態と何かを起こそうと頭が働いていることに気付く。眼差しはどっしりと一点を見つめ重い。頭の中だけチカチカと光が明滅して煩く、呼吸はかえって落ち着いている。どうして同じことを繰り返すのか、自分の身体の中を探って知ることでより自分を深く理解し許すことが出来るのではないか…。

ぼんやり頭を占めようとするのはアルコール類。どれ、という具体的なものは無い。なんでもいい。けれどもう無闇矢鱈に手を出して体内に取り入れたいという欲望は既に手放した。瞬時に「酒」と脳に思い浮かぶたけ。咄嗟にプルタブを開けるなんてことにはならないけど、そうすぐに消えてくれる訳じゃあない。そこでそうかじゃあ果たして今実際に酒を飲みたいのか?では何を?具体的にそれは今この家にあるものか?と考える。そうしてもし飲んでしまった、その後について想像する。自分の本来達成したいと思っている真逆の事を私はもう自分の意識がある限りはしたくない。この体に残った不快感の原因が何なのか忘れた訳ではないだろう。最後の飲酒から5日も経つのに未だ私の体も頭も重く沈んだままじゃないか。もちろん飲酒だけのせいにする気は無い。気候、月の物、その作用から来る運動不足。ただこれらのゆるみが引き金になって「少し酒をのんでもいいかな」に繋がるということは深く実感している。しめて、しめて、ゆるんで、おちて。その必要はないのだと自分に言い聞かせて理解してもらいたい。罪の意識に苛まれるから必要もない責め苦を自分に課すのだと頭では分かっている。だからこその訓練、とでもいおうか、自分の身をもって何度も何度も試す他ないのではないかと…いやそんなことをしていればあと1ヶ月後には見ていられない程に落ちに落ちているかも分からない。そう考えると怖くて悲しくて逃げ出したくて腹の中に言い様のない嫌な気分が広がって、それを洗い流したくて炭酸を流し込もうとする。これがよくない飲み方なんだろうな。ほんとはもっと楽しくお酒が飲めたらいいのに。

多分ここまで考えている時はあんまりよろしくないのも知ってる。どうか飲みませんように。

そうして始まる。

今日ちょっとした気持ちの変化がありました。

梅雨が明け、夏真っ盛り…基、殺人的な暑さを理由に趣味のウォーキングを3週間ほどお休みしていました。

来る日も来る日も30℃以上の猛暑日。もちろんそんな中でもランニングをしている勇者を目にすることもあります。その度に到底自分には真似出来ない所業だ。身体を壊してダウンしたら元も子もない。大人しく熱中症対策をして室内にいようと日々過ごすのでした。


しかしそんな日々にも限界が来ました。暑さ以上になまった身体の心配が勝り、更には精神的にもモヤモヤが溜まり生活に悪循環が生まれていたのです。あー!もう暑くてもなんでもいいから太陽の下で動いて汗かいてスッキリしたい!!!!そう思い立った私はお気に入りの公園へ車を走らせたのです。


私を待ち受けていた緑。眩しい。ギラギラに晴れている。汗をかくつもりできたのでかけばかくほどに嬉しいのです。家の中でも動き回れば大量に汗をかきます。何故こんなに汗まみれなんだ?と半ギレで嘆くほどに不愉快な汗です。それとはまったく違う、こっちから太陽の下に出てかく汗は私を爽快にさせました。歩きながら考え事でもしようかと思いましたが浮かんでは消えまとまりの無い言葉がちらつくばかりではかどりませんでした。でもそれでも良かった。右、左、右と脚を交互に進める行為、否、尻が歩いているのだ!とそれだけのことが愉快に思えたのです。ああ、サルスベリの花が咲いてると見上げて上を向くなんていつぶりだろうとはーーーっと息を吸い込みました。暑かった。


家に帰りシャワーで汗を流しよく冷えた室内で食事をした後、久しぶりに家族とゆっくり時間を気にせず会話をしました。懐かしい話を笑いながら。それが…随分長く忘れていた感覚でした。毎日顔を合わせているのに、こんな風に相手の話を聞いて、それに相槌をして自分もそれに応えて。もう長い間、私は心ここに在らずでぼんやりし、話しかけられても余裕が無く、勝手に決めつけては悲しみ、相手を諦め、時に苛立ち、自分の殻に閉じこもっていました。

だから、こうして以前の様にたわいもない話で笑い会えたことが嬉しかったのです。ここまで喜んでいるのは私だけなのかもしれません。ただやっと少しだけホッとできたのです。


今日の学び


お日様の光は偉大。

ゆっくり会話することは大事。